神戸芸術工科大学 研究所プロジェクト

現存する函館の神永商店製「洋家具・内装カタログ」明治43年頃
開港地の一つである函館の洋家具・内装業者は盛況で、
当時すでにカタログを用意していた。(函館市立図書館所蔵)
 

 「明治八年頃吾國に於ける椅子式家具の創業者杉田幸五郎氏工場 (東京市京橋區築地) に於て製作された當時は未だ歐米より輸入さるゝ家具が多くあつたのである。其故これらの椅子式家具を西洋家具と稱したのである。然して茶箪笥、茶卓類を和家具と稱し、椅子式家具を西洋獨特のものと考へたのである。かゝることは當時の世態人情よりすれば當然であつてそれが當時の進歩せる常識であつたのである。

 杉田幸五郎氏は椅子式家具の製作と普及には驚くべき努力を拂ひ大正末期に至るまで久きに亘て奮勵し優秀なる門下生を帥ひて椅子式家具發達に大なる貢献をなしたのである。今日椅子式家具業者の重鎮は殆ど杉田氏の直流か或は餘流を汲むだ者である。かくて發達を續けられたのであるが、明治政府の政治的指導意圍は建築と共に官衙、學校、其他公共生活方面の發達を第一となされたので、その方面の椅子式生活は發達したのであつて一般大衆の住宅の發達には及ばなかったのである。貴族、富豪の邸宅の客室、食堂等には椅子式家具を用ひられたのであるが、一般大衆は依然として座式生活である。従て一般大衆は座式家具を需用した。ここに於て一般大衆は椅子式家具と對稱して座式家具を以て日常の家具となし、椅子式家具は一般大衆の日常生活には凡そ縁遠いものであり、贅澤物であるとさへ誤解するに至たのである。

 大正時代に至り一般大衆の日常生活改善の機運に到來し、種々の方法によつて椅子式生活が文化生活に必要なる所以を明にするに至り椅子式生活は一般大衆の文化生活上直接必要であることを漸く認識するに至たのである。
 昭和の今日に於ては益々其の發達の状態に進みつゝありて、椅子式家具の意義を愈々明になしつゝあるのである。」


 少々長い引用となったが、以上は、昭和十八年に三共出版から発行された、加納四十二著『家具の實用工作法』「家具の意義」(p2-3)の項からの抜粋である。これは、開国から第二次世界大戦までの洋家具をめぐる諸相を的確に凝縮した系譜である。以降、日本の洋家具史は、大筋この流れに沿って語られている。しかし、行間にも読み取れる通り、解釈はあくまで中央政府の洋風化政策を表舞台で支えた「東京芝家具」を中心にした視点であり、関東圏、および、中央からの政治的な影響によって洋家具を享受してきた地域に当てはまるものである。日本の洋家具産業の黎明期から隆盛期を辿るとき、開港地、特に横浜、函館、神戸には、それぞれ実用的な需要から発生した固有の洋家具産業の系譜があり、東京芝家具にも大きな影響があることを見逃してはならない。

 開港地の洋家具産業は、居留地などの外国人が入国当初持ち込んだ洋家具の修理や再生販売を起源とする現実的な需要に沿って成立した場合が多い。また、1871(明治4)年に官庁で靴での登庁、椅子の使用が始まり、洋家具を使用する環境が他に先駆けて求められたことも需要の一端となっている。業種としては、修理業と道具商であるが、需要の拡大によって、実物を参考にして組立て工法や仕口を学び、塗装技術は中国人から習得するなど、模索を重ねて製造業へと成長していった。この萌芽期の洋家具職人は和家具からの転業ではなく、横浜では駕篭乗物や馬具の職人、神戸では船大工から転業した人々であった。この過程では、明式を中心とする椅子の生活の伝統を持っている中国人の功績が大きいと考えられ、職人として中国人が活躍していた事実は確認できるが、様式の違いからか中国家具の直接的な影響の詳細は不明である。
 神戸の洋家具産業では、明治5年創業の道具商「永田良介商店」と明治8年創業の船大工から転業した真木徳助の「真木製作所」(現在は「メープル不二屋」がその系統を汲む)が、産業として今日までの流れを築いている代表的な二系統である。

 東京芝家具の職人が杉田幸五郎の影響以前の萌芽期に技術の習得のために横浜や神戸、長崎に出向いたという事例(芝家具の百年史)からも、当時、生きた先進技術は外国と直結していた開港地にあったことが推察できる。
 特に、横浜と神戸の洋家具は、開港直後の商社や領事館などの居留地機能の充実によって、早くから小規模ながらも産業として定着していた。また、この2つの地域は他の開港地に比較して、背後の一般消費地の規模も大きく、明治後期には日露戦争後の経済成長による新しい富裕層の誕生や大正期の洋風建築の普及と生活改善の気運によって、その需要は拡大し、より発達することになった。少し遅れて、明治20年頃に函館でも洋家具製作がはじまり、横浜と神戸同様に明治後期から大正期にかけて順調に発展し、昭和初期に最盛期を迎えた。

 しかし、横浜の洋家具産業は、徐々に進行していた外国人の東京への移動と1923(大正12)年の関東大震災による商社や領事館の神戸への移転、職人の芝への流出などから壊滅的な打撃を受けた。以降、東京芝は、横浜の洋家具産業の流れも取り込んで杉田幸五郎の影響下で、政府の意向に依った大きな家具産業地に成長することになる。函館も、需要規模の拡大が図れず、第二次世界大戦を境に衰退の道を辿った。

 一方、神戸では、政府と直結していた芝家具とは対照的に、民間の動きを基盤に独自の発展を遂げていた。研鑽を重ねた結果、明治後期には、イギリスの機械による質の低い大量生産品に対して手工芸の技術が評価され、イギリスへ家具を逆に輸出するなど、ヨーロッパでも賞賛されるレベルに達していた。需要が拡大するにつれ京都や岐阜などにも洋家具産業が興るが、その出発には神戸から職人が出向していた経緯もある。大阪にも支店を出し大きな需要に応えていた。

 大正初期には地の利を生かした船舶艤装への展開、洋風建築の普及による需要もあり神戸洋家具産業の技術の高さは、揺るぎないものになっていた。
 この戦前の豊かな時期は、1935年(昭和10年)前後をピークとし、1937年(昭和12年)の日中戦争を契機として政府は軍国主義へと突き進み、第二次世界大戦によって日本の家具産業は大きな変容を遂げることになる。

 敗戦後の1945年、連合国軍総司令部占領軍の指令によって、家族用住宅「ディペンデント・ハウス(DH)」2万戸の建設と翌年からそれに続く家具什器(DH家具)の生産が開始された。「DH家具」は連合軍総司令部デザインブランチの指導の下で、商工省工芸指導所に設計と生産指導が委嘱されることになった。「DH家具」や生活用品の情報は、工芸指導所が発行する雑誌『工芸ニュース』1946 年Vol.14.No.2より随時詳細に伝えられ、破壊を免れた全国の家具業界を巻き込んで、約30種・95万点が1948年までに製作された。日本が、この「DH家具」によって得た経験は、家具の生産技術の習得だけにとどまらず、家具や生活様式に対する認識を大きく変えることになった。すでに40年代後半には「DH家具」を模した家具が出まわり、洋家具は、富裕層に限らず、民主的生活の象徴として、一般大衆にも普及する時代を迎えることになった。

 一般的に日本の洋家具産業は、この「DH家具」の影響によって転換期を迎え、今日に続く流れとなるが、神戸の洋家具産業は少し事情が違っていた。神戸も、第二次世界大戦中の空襲によって焦土と化し、洋家具の店舗も工場も大半が壊滅したが、戦後、2、3年で数店が再開した。「DH家具」の生産に対しては5社の洋家具メーカーが「兵庫県特殊家具検査協力会」を組織して対応した。ただし再興時に、他の地の洋家具産業が直接的、間接的に「DH家具」の影響から量産を見越した新しい技術を取り入れたのに対して、神戸洋家具は戦前の手作業中心の技術を踏襲したままで再出発したことがその後を決定づけることになる。ただ、1960年代から70年代にかけて経済の成長に比例して、全国的に洋家具産業が発展・変容する中で神戸の洋家具産業も、モダンデザインの影響を受けながら、多様な展開を示した。しかし、最終的には市場での差別化から、開国以来の伝統を受け継ぐクラシックスタイルの高級家具の位置を確保し、小規模ながら点ではなく面として現代にまで継承されている希有な産業となったのである。
 

商工函館の魁 明治18年
 

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