神戸芸術工科大学 研究所プロジェクト
◆背景
 神戸洋家具産業は、前の期に船舶艤装への参入、洋風建築の普及による需要などから、その技術の高さを揺るぎないものにしていた。この期は、社会自体の成長に伴った前の期の流れの需要の増加に加えて、1923(大正12)年の関東大震災による商社や領事館の神戸への移転で、横浜から多くの外国人が神戸に移住してきたことも業界にとって成熟を迎える大きな要素となった。また、大正末から昭和初期にかけて全国各地でも洋家具の展示会が開かれるようになり、一般家庭の需要も生まれ始めた。1924(大正13年)の電話帳(職業別、營業別)からも、その規模の拡大が類推できる。
 ここで、神戸洋家具産業に起きた大きな変化は、単に規模の拡大だけでなく、それまで以上の質の向上が求められたことである。特に意匠面において、ヨーロッパで進行していたアール・ヌヴォからゼツェシオン、ドイツ工作連盟、バウハウス、アール・デコなどの流れの影響で、ライトの山邑邸(1924年)のような、より専門的な知識を要求される局面を迎えていた。
 
◆京都高等工芸学校との関係
 1902(明治35)年に創立された京都高等工芸学校(中沢岩太校長)には、浅井忠、武田五一らが教授として在籍しており、東京高等工芸学校と並んで図案、意匠研究の先端機関であった。浅井忠は、1900(明治33)年に万国博覧会視察のためにパリに出発し1902(明治35)年8月帰国後、京都高等工芸学校に着任する。武田五一は、1901(明治34)年3月から1903(明治36)年7月までヨーロッパを中心に先端の図案研究を目的に留学し、帰国後、京都高等工芸学校図案科教授となり、1918(大正8)年まで図案科長として優秀な卒業生を排出し、後世にまで色濃い影響を残した。神戸洋家具産業は、創設初期から京都高等工芸学校の影響も大きい。

 2代目永田良介は、産業が成長するに従って図案や意匠の専門家の必要性を早くから察知し、京都高等工芸学校に赴き、1912(大正元)年卒業、8期生の酒井新次郎の獲得に成功している。酒井は、1922(大正11)年に永田に就職した京都高等工芸学校後輩の中野善従が1923(大正12)年に養子縁組で三代目永田善従となるおり、身を引いて独立するが、その間、設計士として手腕をふるい大きな影響を残した。酒井は、独立時に船舶部門を譲られて船舶内装「加賀屋」から「神戸船舶装備」を興して大きな成功を収めている。酒井は独立以降も善従を心配して身内同様の関係が続いていたが、永田はそれ以降、船舶部門から一切手を引くことになった。

 国立京都工芸繊維大学(旧京都高等工芸学校)美術工芸資料館には、過去の生徒作品の一部が保管されており、酒井新次郎が在籍していた当時の同期生の作品も確認できる 。基礎的な平面課題から、壁紙や陶器用の図案、室内装飾、家具、照明など、建築から室内意匠、着物柄図案まで幅広い領域の実習が行われ、右下に「武田」の印が押された一連の作品からは、武田五一の下で学んだ酒井新次郎の足跡を伺うことができる。

 1922(大正11)年卒業の三代目永田善従は、武田五一が転出する時期に入学しており、直接武田の指導を受けたかどうかは不明であるが、後任の本野精吾の下で酒井と同様の武田の影響の強い教育を受けた世代である。善従は、1930(昭和5)年、私費でドイツのバウハウスを中心にイギリス、スウェーデンなどの家具事情を視察するなど、研究熱心な人であった。残念ながら、善従は戦争末期の47才で召集、45年6月戦死した。
 他に、1934(昭和9年)卒業の稲垣良二が、戦前の永田で番頭(設計士の主任)をし、出征、退役後、横浜で家具屋『大昌木材工芸(株)』を営んでいた。

 また、大正末期に真木製作所に入り、その流れを受け継いで「メープル不二屋」を1940(昭和15)年に創始した塩飽出身の吉田友一は、京都高等工芸学校の卒業生ではないが、「YMCAに通って英語を習い、デザインの勉強を京都高等工芸の先生について勉強した」と雑誌『オール関西』(1973.3) に掲載されている。吉田の勉強家ぶりには逸話も多く(商店史参照)、酒井や善従と並んでこの期から戦後の神戸洋家具産業を支えた一人であった。

 以上のように、大正初期から第二次世界大戦までの時期に、規模の拡大と質の向上を実現した神戸洋家具産業は、京都高等工芸との関係が強いことが理解できる。特に意匠面において、ヨーロッパで進行していたアール・ヌヴォからゼツェシオン、ドイツ工作連盟、バウハウス、アール・デコなどの流れにいち早く対応するために研鑽が積まれていた。

<当時の京都高等工芸学校 課題作品>  

阿部房次郎 1913(大正2)年卒
AN3660-05/(33)

田崎潤 1912(大正元)年卒
AN3659-72/(75)

岸田正人 1912(大正元)年卒
AN3659-52/(75)

池上年 1912(大正元)年卒
AN3659-44/(75)
 
◆永田善従の渡欧
 この旅行は、2代目良介から授けられた3万円を持ちシベリア鉄道で終着駅のベルリンまで行き、当初の予定3ヶ月を半年に伸ばしている。ヨーロッパで勉強した成果として、先端の意匠の他、当時のドイツやイギリスで用いられていた木目を活かして墨の色調に仕上げる「ぼかし技法」を持ち帰り、永田家具だけのオリジナルスタイルを確立した。これは門外不出にしていて、塗師(ぬし)が専任でいたときから現在まで続いている。

 当時、一般人が私費で洋家具研究にヨーロッパに旅行するなどということは、かなり希有なことで、新聞に数点の記事が確認できる。以下は、神戸又新日報 昭和5年6月14日号の記事と他の記事から善従の言葉を抜粋(一部現代表記)したものである。

 

永田善従氏渡歐  洋家具装飾研究に
 神戸市三の宮町三丁目四一西洋家具商永田良介氏令継永田善従氏はこの度日本向きとして適応した洋風室内装飾並びに洋家具の新更形式の先端を取り入るべく先ず第一に世界の先端を行新更形式の研究所であると言われるドイツのバイエルハウスに赴き専ら其の研究に精進し帰途英、仏、伊、米の諸國における異なれる形式を視察して帰朝の豫定にて一昨十一日午後九時四十三分發富士號特急にて多数の見送りを受けシベリア経由ドイツに向け出発せり

善従の言葉
「西洋家具に新しい様式をとり、精進しているのはドイツです、最近は構成派の様式に東洋趣味を加へて新しいスタイルを完成しました、これに、も少し手を加へるとステキな日本住宅向き西洋家具が出来あがると思います、この様式の考案所であるベルリン近辺バウ・ハウゼン研究所で滞欧の大部分を費やして研究してきますが余日は香り高い英仏の古典芸術に陶酔してくるつもりです。」


永田善従氏渡欧の新聞記事


帰国後の善従は「職人」や「従業員」の親睦に「ピクニック」や「運動会」を盛んに取入れており、人柄も伺える。場所は、諏訪山公園や再度山で、西洋人が多く別荘を構えてスポーツに興じた処でもある。

 
◆店の組織構成
  永田良介商店では、客の注文を番頭が受け図面をひいた。設計士として就職して経験を積んだものが番頭、番頭格になっており、なかには独立開業する者もあった。設計士は、大正期の酒井新次郎を皮切りに、エリートに属した京都高等工芸卒の優れた人材や京都の第二工業(現伏見工業高校)の卒業生を雇い入れている。入社はじめは雑用や使い走りで、やがて先輩から習って図面を描く練習を重ねる方式で、これは戦後も続いている。最盛期に設計士は大阪を入れて11人ほど、神戸店で7~8人であった。設計図から実際の家具を作る側の職人は、親方に弟子入りする徒弟制度で、一人前になるのは5年から10年。製造工場は店の北側にあったが、写真では20人以上が映っている。職方(系列の業種)では、塗師(塗り)職人や椅子張り職人は、会社の従業員ではなく個人(一人もしくは数人)で仕事を請けていて、永田傘下の専従や一般など、現在と同じ分業システムで、多様な関係があったと思われる。(参考:系列業種)

 他方、真木の系列は、戦前は製作工場が主体で、展示、陳列、商品見本といったセールス方法を長くとっていない。店の得意先が新しい客を紹介する口コミで、作業場で客の希望を聞きながら修理や製作の依頼を受けたり、自宅に出向くなどの形態をとっていた。また、職人は一人前になると親方から独立して仕事を請けることが通例でもあったようで、大正13年、昭和16年ごろまでの電話名簿で真木、高島系列を類推できる店が数軒あることから、明治以来、塩飽出身の職人集団が、神戸の良質な洋家具製造を続け、定評を得てたことが推察される。(参照:電話名簿)

大正末期 永田良介商店内

昭和10年 永田良介商店

昭和10年 永田良介商店内
 

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